【雑記】だって嫌いなんだもの
嫌いなものはありますか?
何かしらはありますよね。誰にでも。
辛いものが苦手で嫌いです、とか、雷だけは怖くて嫌いです、とか、虫はぜーんぶ嫌いです、とか。
じゃあ、嫌いな人はいますか?
これは難しいんじゃないですかね。
誰もが「はい」と言えるほど、明確に嫌いな人を思い浮かべられるわけじゃないかも。
もしくは、簡単に「はい」と言うのは心苦しいなって思うかも。
最近、ずっと悩んでたんです。
仕事で関わる人のなかで、どうしても上手く接することができない人がいて。
具体的に何かあるってわけじゃない。
嫌なことをされたとか、極悪人だとか、許せない出来事があったとかじゃない。
ただ、どうしても親しくなれないなと思ってしまう。
何が原因なのか自分でも上手く説明できないんだけど、その人とは距離を縮めることができないんだよね。
でも仕事する上で関わらないわけにはいかないから、とりあえず最低限のコミュニケーションはとるんだけど。
仕事を離れた雑談とかはしたくなくて。
これ以上関わりたくないな、のライン間際で距離とって…でも失礼にならないよう気をつけて…って自分のなかで計算してたら、もうその人といるだけで疲弊するようになってしまった。
コミュニケーションとってなくても、同じ空間にいるだけで緊張して、気張って、ピリピリして。
何か攻撃されるわけでもないのにね。
こっちは完全に臨戦態勢。
分かってる。自分のせい。過剰に気にしてる。
でも関わりを断つとか、ましてや無視するなんて出来るわけないじゃん?仕事だし、子供じゃないんだし。
そんなこんなで勝手に気張って勝手に疲れたなかで、思ったの。
認めるしかない。だって嫌いなんだもの。
相手にはまったく落ち度がないかもしれない。
でも私はこの人のことが嫌いなんだから、上手く接することができなくてもしょうがない。
多少素っ気なくても、多少無礼でも、しょうがない。
ビジネスライクなやり取りしかしなくてもしょうがない。
だって嫌いなんだもの。
相手に勘づかれても構わない。
もう「自分はこの人が嫌いなんだ」って気持ちは、開き直って受け入れることにした。
だって表面的に親しくしたところで、内心やだなって思うなら意味無いし。
この感情を言い訳にして、相手を攻撃することだけはダメだと思う。
それこそいじめみたいな。
でも、上手く関われないことでピリピリして疲れるくらいなら、はじめから上手く関われなくてしょうがないやって思えばいいんだなと気づいたの。
だって嫌いなんだもの。
好きがあれば嫌いもある。
相手には悪いけど。相性ってあるし。
こればっかりは仕方がない。
こうやって開き直って「嫌い」を受け入れたら、心穏やかになった。
嫌いなんだから、仕事の話だけで会話を切り上げるのはごく自然。
談笑には混ざらず、パソコンの画面に集中するのも当然の流れ。
でも仕事で関わる人だから、ばったり会ったら挨拶はする。
お世話になったらお礼は言う。
当然のこと。
そういう線引きがスッとできるようになったの。
要は、相手のことを考えるのをやめたんだよね。
相手とか体裁とか。そういうの気にするのやめたの。
だって疲れるから。上手くやり過ごせないから。
本当は私は嫌いだから。
こういう感情のコントロールが上手くなれたらいいなってずっと思ってるんだけど、今はとりあえずこれでいいって思うことにした。
だって嫌いなんだもの。
その感情をひとつ認めるだけで、動きやすくなる。ことも、ある。
本屋さんってなんだっけ
今週のお題「本屋さん」
面白そうなお題。
久しぶりに書きます。
本屋さん、最後に行ったのはいつだろう。
1か月前くらいかな。意外と最近。でも、最後に本を買ったのはたぶんもっと前。
今どきの本屋さんって、もはや本屋じゃなくないですか?
どこにでもある、大型チェーンの本屋さん。
文房具でも雑貨でも、なんなら洒落たお菓子とかまで売ってたりするし。
本を買うためだけの場所ではなくなってるよね。
あとね、今どき、本を買うならネットとかあるでしょ。なんなら電子書籍で満足しちゃったり。
だから、本を買うために本屋さんに行くって、久しくできてないなあ。
本は好き。
子供の頃より頻度は減っちゃったけど、本読んでたら時間溶ける。
現実の自分の生活とは違う世界、人、事情に集中できるのはリフレッシュになる。
そういえば、子供の頃は中古の本屋さんによく連れて行ってもらってたな。
近所に、児童向けの本を多く取り扱ってる店があって。
あそこの空気感は好きだった。
店自体が雑然としてるし、客もいかに目当ての本を安く手に入れるかで真剣に選んでるし、流行りの商品をやたらオススメするポップとかなくて純粋に本を見れるし。
あそこの空気感に慣れちゃってる自分もいけないんだろうけど、最近の大型本屋さんで本を買うのは少し苦手。
そもそも本屋なのかよく分かんないのと、流行ってる本ばかりが前に出されてて、読みたい本を探すのが難しいから。
でもボールペンのストックとか買い足すのにはちょうどいいので、お店は利用してます。重宝してます。ありがとうございます。
本屋さんだけのせいじゃないね。
私自身が、本屋さんとの関わり方を考えないと。
気づいたら本なんて全然買わなくて、本屋さんってなんだっけ、になりかねない。
【雑記】絶対的な大人じゃない
子供の頃は、大人の言うことは絶対だと思っていた。
親に「なんでできないの?」と言われたり、先生に「違う」と言われたりすると、涙が出た。
大人の言うとおりに正しくできない自分が無価値に思えた。
自分の全部が間違っている気がして、ダメな自分にひどく絶望した。
そうでもないんだなと思えるようになったのは、結局自分が大人になってからだった。
大人だって大したことない。
絶対的存在ではないし、間違うことだってある。
そこまで脅威に感じる必要はなかったんだ。
自分の全部がダメということではなかったんだ。
大きくなるまで気付けなかった。
そもそも私がいつから大人になったのか、というのも曖昧。
そりゃあ、成人年齢は決まってるけど。その瞬間に大人へと進化するとか、劇的変化が起きるとかじゃなかったし。
どちらかというと、私はまだ子供だからなあ、と思ってる。
だめな考えかもしれない。甘えてるかも。
でも、仕方ない。
子供や学生を見ていると思う。
この子たちは年齢こそ若いけれど、ちゃんと1人の人間として意志を持って生きてるわけで。
年齢の差がそのまま全ての差になるわけじゃないよな、って。
私なんかよりずっと秀でたところがあって当然。
絵が上手いとか、電車に詳しいとか、人の目を見て話が聞けるとか、きちんと挨拶ができるとか。
そういうところを尊重していたい。
褒めてあげるとか、叱ってあげるとか、そういう上の立場としての行為じゃなくて。
対等な人として、すごいなって思いたい。尊重したい。
私は親では無いし、教職についているわけでもないから、なおさらそう思うのかもしれない。
導かなきゃ、教えなきゃ、って感覚が希薄だから。
自分のことも子供だと思ってるくらい、先導する立場だという気持ちが無いから。
この、成人した大人として甘々なところは褒められたものではないと自覚してるけど、
そのおかげで若い子に対してフラットな気持ちを抱けるとするなら、
人としてダメってことはないのかもしれないな、なんて。
だって彼らに伝えるなら、私みたいな存在が言う方が効果的だもの。
絶対的な大人なんていないんだよ、って。
【雑記】上にあける
私、カップ麺わりと食べるんです。
お休みの日のお昼とか、ささっと簡単に食べたいときに便利で。
でも、あれってメーカーとか種類によって違うじゃない?上の蓋をペラっとめくった後の工程が。
乾麺の上にすでにトッピングやスープの粉末が散らばってて、もうお湯をかけるだけでOKです、なものもあれば、小袋に分けてあるものもある。
その小袋だって、お湯をかける前に開封していいものもあれば、蓋の上であたためておいて、食べる直前に開封してトッピングするものもある。
だから、カップ麺を食べるときは、お湯をかける前にちゃんと作り方を読むようにしてるんです。
せっかく食べるんだもん、失敗したくない。
そしたらね、今日食べたカップ麺にこんなことが書いてあったの。
『粉末スープ、かやくを麺の上にあけ、熱湯を粉末スープの上から内側の線まで注ぐ』
これを読んで、私は、「難しい日本語を使うんだなあ」って思った。
そりゃ意味は分かるよ。
小袋に入ってる粉末スープとかやくを先に乾麺の上にかけてから、お湯を注いでねってこと。
でも、この『麺の上にあけ、』ってところ、よく考えたら凄く難しい。
要は『あける』っていう日本語だよね。
中身をあけるってことだから、漢字にするとたぶん『空ける』になると思うんだけど。
この『空ける』って言葉を使うときに、その「対象」がセットになるのは当然なんだけど、そこに「場所」が加わるのがややこしいのかな。
『AをBの上に空ける』
この一文をよりきちんと、分かりやすく、丁寧に書くとしたら、
『Aを開封してその中身をBの上に広げる』
になると思う。
つまり、『空ける』には「開封する」と「中身を広げる」の2つの動作が含まれているわけ。
だから、『AをBの上に空ける』って言われた側、読む側は、2つも動作をイメージする必要があるから、複雑さを覚えるんだろうね。
それが『あける』に対して感じた、難しさの正体なんだろうな。
まあ逆に言えば便利な言葉ですよ。
少ない文字数に情報をギュッと詰めこめて。
日本語の優秀なとこが出てますよね。
【雑記】星とんでった
昨夜、星がとんでいくのを見た。
流れ星というより火球と呼びたくなるような、でかくて眩しくて目立つやつ。
見た人も多かったと思う。
でかいせいか、緑色に燃えているのが肉眼でも分かった。燃えながらどこかへ墜落しに行く星。
とびながら、一部が欠けた。細かい光の破片が弾きとんでいった。
さながら星の飛沫。
昨日は金曜日で、それなりに疲れてたからか、とんでいく星を見て少し晴れやかな気持ちになった。
星だってどっか行っちゃうんだもの。
あんなに遠くて、ささやかで、いっぱいあって、長生きする星でさえ。
意識しなくても、いつだってそこにあると思い込んでいる、あの星たちでさえ。
あんな風にいきなり燃え落ちるんだもの。
そう思えば、自分のせいで起こることも、不可抗力で起こることも、まあ仕方ないかもねって思った。
これは諦めじゃない。
もっとポジティブな、言うなれば心を広くする考え方。
とんでいく星を楽しむように、燃え落ちる星を許すように、世界を認められたらいいのに。
【考える】言語化できない、なんて言うけど
特別お題「わたしがブログを書く理由」
「あー、上手く言語化できないんだけどぉ、」
友達にそう言われた時、なんとなく「ん?」と思った。
言語化できない?
言語化できるとかできないとか、考えたことがなかった。だから友達の言葉を聞いて、飲み込むのに時間がかかって、モヤモヤと浮かんだのが「ん?」だったんだと思う。
もちろん意味は分かる。
読んで字のごとく、自分の感情なんかを言葉にして表すことだし、もっと言うとそれによって他者へ伝えるってこと。
つまり、友達は「自分の感情を上手く言い表せない」「上手く伝えることができない」と思って、もどかしかったんだろう。
そのもどかしさ、難しさを表したのが、くだんのセリフ、「上手く言語化できない」だったわけ。
言語化できないものがあるの?
言いたいことは分かった。変なことを言ったわけでもないし、ごく自然なセリフだと思う。友達は何も間違っちゃいない。
じゃあなんで「ん?」なのか。
言うなれば、それは私の捉え方のせい。
私は友達のセリフを聞いて、「じゃあ言語化できないものがあるの?」と思った。
思考回路がひねくれているんだと思うし、逆に真っ直ぐだとも言えると思う。
私は、友達の「上手く言語化できない」を受けて、「表現が上手くできない」の捉え方だけじゃなく、同時に「言語化できないものがある」という捉え方もしてしまったらしい。
「自分の中に言葉で表すことのできないものが存在する」ということが有り得るのか。
あるとしたら、それはどんなものなのか。
ここまで思考が飛躍した結果、私のその疑問を表す最初の言語化は、「ん?」だったようだ。
…いやこれは言語化でもなんでもないか。
言語化できないものなんて
言語化できないものなんてあるのかしら。
考えたこともなかった。言語化できる、できないの日本語すら使ったことがなかったくらいだし。
たしかに、激情に身を任せているときはろくな言語化はできていないと思う。喧嘩で激怒したり、ショックで大泣きしたり。
でもあれは冷静さを欠いているせいだ。言語化できない状態なだけ。
後になれば、何が嫌で、何が苦しくて、だからこう感じたんだ、ってことが整理できる。
他人に上手く伝えられるかどうかは場合によりけりだけど、基本的に自分の中では理解できてる。
理解できてるってことは、自分の中にあった正体不明のモヤモヤした何かを、きちんと型にはめて、ラベリングして、自分の中に仕舞えてるってこと。
つまりこれは、『言語化できるもの』になってる。
ほかにも、激情ではないけど、嬉しいのに泣いたり、苦しいのに笑ったり、よく分からない感情というものもある。
こういう複雑な感情は、言語化できないのか?
この複雑さは、理性が絡んだものなんだろう。
だって感情の全部を素直に出力して、本能のままどストレートにひけらかしてたら、意に反して涙が出たり、感情に逆らって笑ったりなんてことは起こらないはず。
ということは、感情を外に出す際に、どこかで思考が働いて、理性的変換が行われているってこと。
理性的要素があるとなれば、当然それは『言語化できるもの』だ。
私たちは言語を用いて思考しているし、理性的判断は思考を通して行われている。
複雑だから言語化できない、なんてことはなくて、むしろ、複雑なものこそ言語化できるのかもしれない。
言語化とは自己満足
ぐちゃぐちゃと考えているけれど、じつは私はこうしてぐちゃぐちゃ考えるのが好きだ。
正しいかどうかなんて知らないし、間違った認識もあるかもしれない。
私にとって重要なのは、「自分の言葉で自分であれこれ考えた」ということ。
この過程が好きだし、ぶっちゃけ正解じゃなくても、まあ楽しいからいっか、と思う。
ただの自己満足。
「ここまで書いといてなんだそれ!」と思うかもしれないけど、でも言語化ってそういうことじゃない?
あくまで個人の感情、感覚、思考を言語にして表現しただけ。
それを誰かに伝えたくて発してるだけ。
だから、言語化できないものなんてない。「表現したい」「発したい」と思ったものを自分が満足する言葉で表せば、それで言語化完了。
もちろん、外に出したくないものは言語化しなければいいんだし。
『言語化できないもの』があるわけじゃなくて、『満足できないこと』があるってだけ。
気持ちの問題、もしくは表現能力の問題。
言葉に頼っている
私は、ご覧のとおり言語化することが好きだ。
言語化することでしか満足できないってくらい、言葉に頼っているタイプ。
言語化して考えるし、文字で覚えるし、言葉に影響される。
これは個人の嗜好だろうなと思う。嗜好というか性質というか。
言葉じゃなく、数字や絵や音楽に頼る人もいる。
同じ言語化でも、理詰めしたり簡潔にまとめたりできる人もいる。
そういう人には、私の思考、つまりこの文章はヘンテコに映るんだろうな。
それに対して、悲しいとか悔しいとか仕方ないとか思うこともあるけど、総じて面白いなと思う。
いつか、人の思考の違いについても、ぐちゃぐちゃ考えてみたい。
このブログでは、こんなふうに些細なことを言語化してぐちゃぐちゃ考えるつもりです。
自己満足と言ってしまえばそれまで。
何のためにもならなくても、言葉で見える、言葉で伝わることってハイレベルなことだと思う。
我々人間の特権であり、義務でもある。
謳歌したいものですよ。
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